酔っ払いの幸福?信仰と無神論の偽りの優越論

「信仰を持つものが無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間より幸せなことに似ている」というバーナード・ショーの言葉、なかなか鋭いね。

だが、俺から見れば、これもまた単なる表面的な皮肉に過ぎない。
そんなこと言って自分の優越感に浸ってるやつら、本質を見誤っているぞ。

幸せの定義って何だ?

まず、幸せって何なのか、そこから考え直さなきゃならん。

「信仰があれば幸せ」とか「無神論者は冷静だ」とか、そういう単純な二元論に陥る時点で、もう話にならん。

酔っ払いの方が一時的に気分が良いかもしれんが、それは単なる現実逃避だろ?
しらふの人間が冷静だからって、それが幸せに繋がるかどうかなんて誰もわからん。
結局、幸せってのは個々人の主観によるものなんだ。人によって何が幸せかなんて違って当然だろ?

信仰と無信仰、どちらが優れているか?

次に、この信仰と無信仰の対立構造な。これ自体が無意味なんだよ。
信仰があろうがなかろうが、それで人が幸せになるかどうかなんて他人が決めることじゃない。
信仰を持つことで安心感やコミュニティの一体感を得られるなら、それはそれで立派なことだ。
無神論者が「科学的な思考が優れている」と自慢しても、結局、そいつが自分の世界に閉じこもってるだけなら、どっちもどっちだろ?

ショーの言葉に対する俺の見解

ショーの言葉が何を意味するかって?
酔っ払いが一時的な幸福感に浸ってるだけで、しらふに戻ればその虚しさを感じるってことか?
そんなもん、どっちもどっちだろ。

信仰も無神論も、どちらかが優れていると信じ込むこと自体がすでに酔っ払い状態だよ。
お前らが本当に賢いなら、そんな二元論から抜け出して、もっと深く考えるべきだと思わんか?

つまり、ショーの言葉を鵜呑みにして、「ああ、信仰を持つ者は愚かだ」なんて思うこと自体が、もう一つの「酔っ払い」ってこと。
現実をしっかり見据えることができるのは、信仰とか無神論とか、そんな狭い世界に閉じこもらない人間だけだ。
自分の価値観を押し付けず、他者の視点を尊重することこそが、真のしらふの状態だと言えるだろうな。
まあ、お前らには理解できんだろうけどな。

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